節目の9月 父の没後10年と社長就任22周年
おはようございます^^
自社の問題解決力を見える化し展示会を成功に導く、展示会活用アドバイザーの大島節子です。
明日から雨。予報では今日が最後の猛暑日のようですが、どうなるのでしょう。そんな早朝の大阪から今朝も展活タイムズをお届けします。
連鎖倒産の危機と、父とトラックで走った日々のこと
9月は、2016年に他界した父の命日がある月です。 今年で亡くなってから丸10年が経ちました。
そして9月は、私が有限会社マルワ什器の社長を継いだ記念月でもあります。 2004年9月、当時29歳で正式に代表取締役に就任してから22周年を迎えます。実質的には2002年頃から社長業を担っていたので、体感としてはもう四半世紀近く社長をやっている感覚です。
父が亡くなって10年、社長就任22周年という節目の9月に寄せて、家業最大の危機だったあの頃と、父との思い出を振り返ってみたいと思います。
「一社依存」の崩壊と、連鎖倒産を免れた本当の理由
2001年、マルワ什器が売上の95%以上を依存していた大手スーパーが経営破綻しました。 主力取引先を失い、家業はまさに連鎖倒産の危機に直面しました。
セミナーなどで短く話すときは「ウェブサイトによる新規販路開拓が成功したから危機を脱することができた」と説明してきました。しかし実際には、ウェブサイトが軌道に乗って新規顧客を獲得できるようになるまでには数年のタイムラグがありました。その間、なぜ会社を持ちこたえさせることができたのか。
理由は3つあります。
- 数ヶ月分のキャッシュがあったこと
:売掛金の入金がストップしても、数ヶ月間は会社を回せる手元資金があった。そして3ヶ月後、止まっていた売掛金が無事に入金された。 - 5年間の猶予があったこと
:支援企業が決まり徐々に店舗が閉鎖されていきましたが、弊社が担当していた店舗がすべて閉店するまでに5年の歳月があった。 - 猶予期間に新規販路を作れたこと
:売上がいきなりゼロになったのではなく、5年という猶予があったからこそ、その間に必死で新しい販路を構築できた。
運とタイミング、その間、なんとかキャッシュが回ったからこそ、マルワ什器は連鎖倒産を免れることができました。
父と二人、トラックで「道の駅」をまわった数ヶ月
大手スーパーの倒産が決まり、仕事が激減してぽっかりと時間ができた頃。 「新規の販路を開拓しなければ」と父が目をつけたのは、当時各地で次々とオープンしていた「道の駅」でした。リストを作り、手作りの商品カタログを用意し、父とトラックで近畿各地の道の駅を営業してまわりました。
話を聞いてカタログを受け取ってくれる店もありましたが、ほとんどは「忙しいからジャマしないで」という冷たい対応。飛び込み営業ですから、当然といえば当然です。
当時、まだ病名はわかっていませんでしたが、父の体はすでにパーキンソン病に侵されていました。 そのため車の運転はできなくなっており、初めて会うお客様の前では言葉がうまく出てこない状態でした。それでも「なんとかしなければ」という強い思いだけが父を動かしていました。
そんな父を助手席に乗せ、知らない山道を越えて道の駅をまわること数ヶ月。 結果は、1件の受注も取れませんでした。

時代の変化と、父が生きた営業の軌跡
「これじゃダメだ!」と焦った私は、そこからビジネス書を読み漁り、大阪市の中小企業支援講座に通い詰めて必死で販路開拓の勉強を始めました。当時は「父のやり方じゃいつまで経っても新規顧客なんて取れるわけがない」と苛立ってばかりでした。
けれど、父には父の成功体験がありました。 若い頃、実家の歯ブラシ工場が倒産する直前、歯ブラシを抱えて各地の旅館へ飛び込み営業にまわった経験。 高度経済成長期、マネキンや什器メーカーの営業マンとして、新しくできる店舗へ足繁く通ってモノを売ってきた時代。 当時は、その足で稼ぐ営業スタイルで実際に売れていたのです。
マルワ什器を創業し、一社依存というある意味で安定した経営を続けていた十数年のあいだに、世の中の営業のあり方がすっかり変わってしまっていただけでした。
父と走ったあの山道があったから
あとにも先にも、父と二人きりで毎日トラックに乗って各地を走り回ったのは、あの数ヶ月間だけでした。当時は先の見えない不安と焦りでいっぱいでしたが、今振り返れば、経営者としても娘としても本当に貴重で良い経験をさせてもらったと感じています。
父が遺してくれた会社を継いで22年。 形を変えながらここまで続けてこられたことに感謝し、これからも一歩一歩、大切に歩みを進めていきます。
今日もお読みいただきありがとうございます。

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